檀家さんにくばっています「正覚」123号です
2014年01月13日
安心
どの宗教でも一番大事なのは「安心」を手に入れることなのです。仏教では「あんじん」と読みます。
たとえば、バスにお乗りになって、発車すると、まもなく「急停車する場合がございますので、吊り皮、
手すりにおつかまり下さい」と、車内放送が流れます。その吊り皮や手すりというのは、動かないもの
です。 その動かないものに寄りかかる、これが安心を得るにはもっとも手っ取り早いことになります。
私たちは、「安心」を得るために、すがるものを何か外に求めようとします。おすがりするのは、仏様
であり、阿弥陀様、観音様におすがりしたいと考えます。ところが、どこにいけば阿弥陀如来にお目に
かかれるのか、あるいは観音様にお会いできるのか、わかりません。 実は、外に向かって求めても
だめなんです。私たちの「求める心」を断ち切った時に、初めて「安心」が得られるのです。
本当の仏様はどこにいらっしゃるのか。阿弥陀様は、十万億土の西方極楽浄土におられると申しま
すが、そんなことではありません。臨済宗の宗祖、臨済禅師は、本当の仏様は「面前聴法底」、今、
目の前で話を聞いている「あなた」であると言っておられます。外に求めることをやめて、このまんまで
「ありがたい」と受け取ることだと、臨済禅師はおっしゃるのです。
私たちは、自分が自分で生きていると思っておりますが、そうではなくて「面前聴法底」のあなたがた
一人一人が、限りないご縁、おかげに生かされている。これに気づいたとき、私たちは、本当の仏様に
お目通りすることになり、そこにゆるぎない「安心」の生活を手に入れることができるのです。
どの宗教でも一番大事なのは「安心」を手に入れることなのです。仏教では「あんじん」と読みます。
たとえば、バスにお乗りになって、発車すると、まもなく「急停車する場合がございますので、吊り皮、
手すりにおつかまり下さい」と、車内放送が流れます。その吊り皮や手すりというのは、動かないもの
です。 その動かないものに寄りかかる、これが安心を得るにはもっとも手っ取り早いことになります。
私たちは、「安心」を得るために、すがるものを何か外に求めようとします。おすがりするのは、仏様
であり、阿弥陀様、観音様におすがりしたいと考えます。ところが、どこにいけば阿弥陀如来にお目に
かかれるのか、あるいは観音様にお会いできるのか、わかりません。 実は、外に向かって求めても
だめなんです。私たちの「求める心」を断ち切った時に、初めて「安心」が得られるのです。
本当の仏様はどこにいらっしゃるのか。阿弥陀様は、十万億土の西方極楽浄土におられると申しま
すが、そんなことではありません。臨済宗の宗祖、臨済禅師は、本当の仏様は「面前聴法底」、今、
目の前で話を聞いている「あなた」であると言っておられます。外に求めることをやめて、このまんまで
「ありがたい」と受け取ることだと、臨済禅師はおっしゃるのです。
私たちは、自分が自分で生きていると思っておりますが、そうではなくて「面前聴法底」のあなたがた
一人一人が、限りないご縁、おかげに生かされている。これに気づいたとき、私たちは、本当の仏様に
お目通りすることになり、そこにゆるぎない「安心」の生活を手に入れることができるのです。